山村流と上方舞
上方舞とは京阪神で生まれた舞を総称し各流派独自の発展形態を遂げ、関東で生まれた
「踊り」とは性格を異にしています。山村流は、中でも最も古い流儀であり、三世中村歌右衛門に歌舞伎の振付師としての才能を認められた山村友五郎を流祖として、江戸時代(文化3年)大阪で創流されました。このため、歌舞伎や文楽にも多くの振りが残っております。
大阪という土地柄、当時の交流の場であった酒宴席の座敷には舞が欠かせぬものであり、埃をたてぬ様、一畳の空間でも舞えるようにと配慮がされてきたことが舞台芸術のまま育った「踊り」と違う点と言えます。
主に座敷で舞われてきたものを「座敷舞」と呼び、土地ごとに歌われた当時の流行り唄「地唄」に振りをつけられたことで「地唄舞」とも呼ばれています。
能より作られた「本行物」は中でも「許し物(奥許し)」として重い格付けで扱われるほか、「雪」に代表される女心をうたった「艶物」、動物などをおもしろおかしく唄い込んだ「滑稽物(おどけもの・作物)」やそれぞれの土地の風土や季節ごとの風情・風俗を写したものなど、様々なものが伝えられています。
地唄について
地唄(地歌とも書く)は、江戸時代に上方を中心とした三味線音楽であり、当道という視覚障害者の自治組織に属した盲人音楽家が作曲、演奏、教授したことから法師唄とも呼ばれています。
また、音楽的な特徴としては、盲人作曲家によって作られた経緯から、心情に訴えるような内容を表現した内容が多いです。
[出典]
山村流の地唄舞と山村楽女のプロフィール